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LOST
私は時々自分を利己的だとか自己中心的などと云う
私の写真には私の心が写っていると云われると
それは私のココロそのものではなく、欠けた部分なのだと思う
街を彷徨い歩いて欠けたココロを埋める何かを探しているのだと
real
real 真の,本物の,実在[存]する, 現実の... 辞書にはこう書いてある
私が日常生活で見聞きする“real”は「本物と見間違うような」とか、「精巧な」に置き換えられている
そういった意味をも持つ単語であったとしても、“真の”という意味を持たなくなってしまっているように感じる
心地よい、都合の良い real が、苦くて辛い real を見えなくする
写真というのは文字通り“真”を写すものだ それが全てだとは思わないけれど...
目の前の事象はその時の真実に違いない
作り笑いも、嘘泣きも
本気かどうかではなくて、笑っている、泣いているという事実
それがシチュエーションにはまれば、人の心を揺さぶるだろう
ドキュメントなのか、フィクションなのか
真実のみを追い求めるのか、演出でも構わない そんなことはどうでもいいと考えるか
ポートレート
そこに real なんて言葉を持ち込むべきではなくて、演出とそれに応える演技力にこそ意味があるのか
あなたの real は何処にありますか?
過去は過去...
今回も「Waltz...」から...
この話にはひとりの女とふたりの男が語られています
この男“ふたり”が描き分けられていないとわかり、少し手を加えました
女が呼ぶ“貴方”と“あなた”です
文中、 “貴方”から“あなた”に切り替わる間にある時間や
最後の“女”の言葉に至る時間をご自身の言葉で埋めてください
“貴方”と “あなた”は生き様のまるで違う男です
悲しい嘘
Waltz....の1シーンで
「寂しいって云ってるみたいだ」と男に云われて
女がそれきりその言葉を口にしなくなった...というくだりがあります
これには裏設定があって、彼女は「さみしい」、「悲しい」...を
言葉を置き換えずに云えるようになったと思っています
強がる、強くあろうとする、弱さを否定する...というのは誰もが通ってきた道
そこで強い自分を創り出す人、その部分だけ見ないようにする人... 様々です
私は、弱い部分を認めて受け容れ、そんな自分の一部も含めてすべての自分にやさしくする...
それが寂しさや悲しみを乗り越える道なのかな?と考えています
“寂しい”を“寂しくない”に、“悲しい”を“悲しくない”に変えるのではなく
そのままで自分に内包するというのかな...
ペシミズムとは違う、かといってその逆(楽観主義)でもない
それは“自分に甘い”というのかもしれないけれど...
生き様
封印していた「無罪モラトリアム」をヴォリュームをあげて聴きました
(なぜ封印?というと、これ聴きながらだと運転が荒くなるんです)
このアルバムが一番という人が多いのが、今は判るような気がします
私にとって、これほど“生き様”という言葉がピッタリくる女性はそう多くはいません
賛否両論,誹謗中傷が絶えなかったようですが
「出る杭は打たれる」という風潮は何とかならんものなのでしょうか
それと「水に流す」,「臭いものに蓋」...こういう言葉が根付いている、なんと無責任な人種なのか
欧米崇拝、個人主義...その先にあったのは
「捕まらなけりゃ何やってもいい」という排他的利己的な文化、かな?
また、話が逸れました...こんなこと私以外にはどうでもいいこと...
車の中で林檎を鳴らし、なにやら叫んでるような奴がいたらそれは私デス
共に生きる
映画やミュージッククリップ、絵画やコミック
私はそれらを見るとき、映像のアングルや画角などに心惹かれていた...と感じていた
いや,確かに今まではそうだったのだ
同じシーンが見る者の心情次第でその印象を変える、
最近はそれを痛感することが多くなった
今ではどこにCGが使われているか?なんて、映像を見ながら考える人なんて多くないハズ
すごいワイヤーアクションも、
たくさんのカメラで囲んで高速のモーションカメラ風に撮るなんてことも
最近までみんなをドキドキさせた手法だが、今では使いすぎに注意!だ
見たことない、ありえない、そんな世界を見せられるのはある種の快感だけど
快楽的な刺激は慢性化し、更なる刺激を求める
確かにそういった欲求が映像の世界を変えていく原動力なのだろうけど
たぶんこの先、どんなに時が経っても色褪せずに私のココロを捉え続けるのは...
“共に生きる”ということ
物語の中で語られる“共に生きる”者たち
そこにある「信頼」,「覚悟」,「背負うモノ」,「守るべきモノ」,「希望」...
避けられない悲しみ
受け容れなくてはならない現実
死
“共に生きる”というのは、
今の幸福感が未来永劫うつろうことなく続くこと...ではないはずだ
どんなに視覚効果が素晴らしくとも
Full CGであっても
素晴らしい脚本や演出には敵わないし
素晴らしい役者にも敵わないのだと思う
画を作り込む前にシナリオを煮詰める必要があるのだ
胸が痛くなるような、そんな想いを伝えるために
STORIES
物語 それは失われることを惜しまれ、記された大切な記憶
ヒトの記憶は主観でしかない (稀に複数の記憶を持つヒトもいるようだが...)
あるヒトは誰かの記憶の中に生き続けようとする
自分を記憶するヒトがいなくなってしまうことが本当の死であるというヒトもいる
たとえば、ある有名なマラソンランナーが走る姿を見て心が震えるのは
そのヒトがどんな出会いをして、どんな努力をして
どれほど苦しみ、悩み、涙して、そして笑ったかを
メディアが伝えていたからではないだろうか
他人の記憶、物語 それらに惹かれ、焦がれ、求めるのは
自分に欠けている記憶を他人の記憶で補おうとするためだろうか?